ウガンダの歴史|学習プリント.com

ウガンダの歴史

ウガンダの歴史

ウガンダは1894年から1962年までイギリスの保護領として管理されていましたが、1962年10月9日に独立しました。

その後1986年にヨウェリ・カグタ・ムセベニ大統領が大統領に就任するまでの約20年間、クーデターが繰り返されました。中でも1970年代、当時のイディ・アミン大統領の軍事独裁政権時代では、生まれたばかりの民主主義制度を弱体化させ、政治的な暴力により約30万人ものウガンダ人の命が犠牲になったと言われています。これにより、イディ・アミン大統領は冷酷で悪名が高い大統領として世界に知られるようになります。

1986年にムセベニ大統領が就任した後は民主主義と権威主義の相反する特徴を併せ持った政治体制を築き、以降35年以上もの間ウガンダ大統領を努めています。ムセベニ政権下ではウガンダ北部で2006年まで内戦があるなどしましたが、以前と比べると国民は安定的な生活を送ることができている状況です。

参考資料: https://wenr.wes.org/2020/10/education-in-uganda

イギリス保護領時代のウガンダ

ウガンダの風景

大きなヴィクトリア湖に面し、赤道直下にあるウガンダは、当初欧米の国々に住む人々からはなかなか発見されませんでした。しかし、奴隷と象牙を求めてアフリカにやってきたアラブの商人がウガンダを発見し、それに続いて、1862年には探検家のジョン・ハニング・スピークに、1875年には同じく探検家のヘンリー・モートン・スタンリーによって発見されることになります。

アフリカの各地域が発見されることで、1880年代にはアフリカの奪い合いが起こり、ついに、1884年ドイツのビスマルク宰相が欧州諸国に呼びかけてベルリン会議を開催し、アフリカの植民地分割が決定されました。これは、アフリカ各国の当事者は全く関与しない状態で、紙の上だけで決められた不条理な決定でした。

このことは、2022年2月21日にアメリカで開催された国連の緊急会合でケニアのキマニ国連大使が、「ロシアのプーチン大統領が一方的にウクライナ東部のドネツク州とルガンスク州の一部地域の独立を承認し、この地域への軍の派遣を命令したことは、過去にアフリカが欧州諸国によって一方的に植民地支配を受け、国境が分断された時と同じだ。」として、ロシアに対する憤りをあらわしたスピーチをしたことでも知られることになりました。

ベルリン会議での決定以降、イギリスは1894年にウガンダを保護領とすることを正式に宣言し、ウガンダのイギリス保護領時代が始まります。イギリスはウガンダの主要な4つの王国(ブガンダ、トロ、アンコーレ、ブニョニ)を保護領として統治しますが、イギリス政府は各王国の王がそれぞれの地の統治をする体制を維持する協定を結んだことにより、各王国の王による統治体制が維持されました。

しかし、第二次世界大戦以降、半独立君主制の連邦制度はあまり適切ではないとする、高い教育を受けた若い将来のリーダーとなる可能性のある人達などにより民族運動が起こり、1962年10月9日にイギリスがウガンダの独立を認めることとなりました。

参考資料:
http://www.historyworld.net/wrldhis/plaintexthistories.asp?historyid=ad22
https://www.mofa.go.jp/mofaj/press/enzetsu/12/sei_0630.html
https://news.tv-asahi.co.jp/news_international/articles/000246701.html

繰り返されたクーデター

Obote cropped.png
Bundesarchiv, Bild 183-76054-0003 / CC-BY-SA 3.0, CC BY-SA 3.0 de, リンクによる

1962年にイギリスから独立した当時、ウガンダの政治を統率していたのはミルトン・オボテ首相でした。オボテ首相はウガンダ国内の主要な4つの王国の王に、ある程度の自治権を与えることを認めますが、これは一時的に過ぎませんでした。オボテ首相はウガンダ北部からの指示が強く、ウガンダで最も影響力のある南部のブガンダ王国の王であるカバカ・ムテサ二世がウガンダ国内を支配していることを快くは思いませんでした。

オボテ首相とムテサ二世との関係悪化がしばらく続きましたが、1966年にオボテ首相が新しく任命された陸軍軍事司令官のイディ・アミン氏率いる部隊をブガンダ王国のメンゴ宮殿に送り込み、激しく攻撃を加えたことにより、ムテサ二世はイギリスに亡命せざるを得ない状況となりました。この攻撃により、オボテ首相とムテサ二世との関係悪化に終止符が打たれることになります。

その後、同年の1966年にミルトン・オボテ氏は大統領に就任し、軍隊や警察官たちの助けを借りて、ムテサ二世を支持する政敵たちを恐怖に陥れました。

クーデターによりムテサ二世がいなくなった宮殿は空き家となったことで、宮殿の建物は軍の兵舎に転用され、隣接する敷地には刑務所と拷問処刑室が建設されました。この刑務所には、コンクリートに囲まれた暗くて湿った独房が多数あり、周辺には脱走を防ぐために電気を流した水の通路も設置されていました。ここには、かつての囚人たちが木炭で壁に記した「オボテ、お前は私を殺したが、私の子ども達はどうなるんだ!」という有名なメッセージが残されています。

その後、1971年にオボテ大統領が外国を訪問している間、イディ・アミン氏はクーデターを起こし、オボテ政権を倒して大統領に就任しました。しかし、アミン大統領は自分の部族以外の部族を迫害し、結果的にアミン大統領が失脚するまでの7年間に約30万人もの命が奪われたとされています。

イディ・アミン大統領が、タンザニアなどに亡命したウガンダ人とタンザニア軍が結集した軍の侵攻により失脚させられた後、1979年にルレ大統領が就任しますが、1980年にウガンダの将軍ティト・オケロ氏がクーデターを起こしたことで、再度ミルトン・オボテ氏が大統領に復帰しました。この時、オボテ大統領は暴力的な支配で自身を優位な立場に推し進めましたが、経済は混乱し、武装勢力による部族の虐殺も進められたため、ティト・オケロ氏は再度クーデターを起こし、オボテ大統領を追放しました。

この頃、新政権での自分の立場を不服と感じていたヨウェリ・ムセベニ氏は国民抵抗軍(NRA)としてゲリラ活動を行い、1986年に首都カンパラを占領し、大統領に就任しました。

参考資料:
http://www.historyworld.net/wrldhis/plaintexthistories.asp?historyid=ad22
https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/uganda/data.html
https://op.go.ug/history

ムセベニ政権とウガンダ北部の内戦

Yoweri Museveni September 2015.jpg
U.S. Department of State – https://www.flickr.com/photos/statephotos/21149349393/ パブリック・ドメイン, リンクによる

1986年にヨウェリ・ムセベニ(2021年よりヨウェリ・カグタ・ムセベニ)氏は、政権を掌握し、それ以降35年以上もの間、大統領を務めています。

1995年には新憲法を国の最高法規として採択し、それ以降ウガンダは法の支配下に戻り、そして経済は大きく発展しました。1986年以降約30年間の経済成長率は平均約6%となるなど、ムセベニ政権が導いた経済の自由化はウガンダ経済に大きく貢献することとなります。

そんな中、忘れてはならないのが、ウガンダ北部で1980年代後半から開始され20年以上も続いた内戦についてです。

ウガンダ北部では、ウガンダ南部の政府軍とウガンダ北部の神の抵抗軍(LRA:Lord’s Resistance Army)と呼ばれる反政府軍が対立をし、ゲリラ戦を展開しました。

この時、神の抵抗軍は、北部の村々を襲撃し、村人たちに暴行や虐殺を繰り返していました。また、子どもを誘拐して戦闘の最前線に立つ兵士にしたり、女の子であれば性的奴隷にさせるなどして、多くの子どもが神の抵抗軍による犠牲者となりました。これにより、約3万人以上もの子ども達が誘拐され、10歳未満の子どもでさえも子ども兵として戦っていました。こうした神の抵抗軍の攻撃により、約170万人もの人たちが村を離れてウガンダ政府が運営するキャンプで国内避難民として生活を送りました。

その後、2006年8月に神の抵抗軍はウガンダ政府との間で敵対行為の停止協定に署名をしましたが、神の抵抗軍は最終的な和平合意の場に現れず、引き続き、コンゴ民主共和国や中央アフリカ共和国、南スーダン共和国などで活動を続けていきました。

しかし、2006年の神の抵抗軍とウガンダ政府の停戦合意後、ウガンダ北部には国内避難民達が帰還し、治安が少しずつ回復するようになりました。

参考資料:
https://www.ugandainvest.go.ug/why-uganda/economy/
https://www.terra-r.jp/activity_uganda.html

まとめ

数々のクーデターや内戦を経験したウガンダですが、2022年現在の今でもウガンダはアフリカで最も難民を受け入れている国として知られています。その背景には、かつてのクーデターから非難したウガンダ難民を受け入れてくれた周辺国への助け合いの気持ちによって、難民受け入れ政策をとっているとも言われています。

「難民に寛容な国」として知られているウガンダは、難民居住地を設け、難民に対して移動に制限を設けず、自由に就業も可能としています。また、ウガンダ政府は難民に教育や医療サービスを提供するなどしており、ウガンダの難民政策は難民受け入れモデルとして国連からも注目を浴びています。

参考資料:
https://www.japanforunhcr.org/activity-areas/uganda
https://www.jica.go.jp/publication/mundi/1706/201706_03.html

この記事が気に入ったらシェア

活動記録アーカイブ

活動内容・イベントの種類

記事カテゴリー

ページトップへページトップ